ハイデマリーは今日も起きれなかった。


最後にあの空を見上げたのはいつだったか。


目を開けても視界を埋めるのは悠久へ続く暗闇。


いつもそうだったし、これからもずっとそうなのだろう。


ベッドの中に潜り込むと、堅く閉ざされた窓の向こうから微かに二人の男の声が聞こえる。


「なあ、知ってるか? この屋敷、出るらしいぜ」


「なんでも真夜中に幽霊が抜け出しては街中を徘徊してるんだそうだ。そいつと目が合ったやつは、二度とお天道様を拝めなくなるとか……」


「おいおい、お前まだそんな古い噂信じてたのか? 俺の聞いた話じゃ魔法力のコントロールができない女の子が住んでるって話だよ。どうも明かりが苦手で夜しか出歩けないんだとさ」


「へぇ~そうだったのか……」


男は安堵したようだ。


「でもよぉ、見てみろよ。真っ昼間だってのに屋敷中の窓をがっちりカーテンで締め切ってるっつーのは気味が悪いぜ……。なあ、とっとと行こうや」


「ったく、臆病なやつだ」


 そうして遠ざかっていく声を聞きながら。


時間という犠牲者を見殺しにしながら。


凶器のように鋭い意識を泳ぎながら。


ハイデマリーは生きていた。







月が空高く昇る頃、ハイデマリーは起きた。


チラチラ揺らめく蝋燭の灯火を頼りに服を着替え始める。


白磁の身体は病的なほどに透明感を称え精巧な人形のようだ。


やがて糸も布も全て真っ黒なドレスに着替えると、鏡の前に立つ。


豪華なフリルとレースが白い素肌を覆い隠すように包み、その姿は冬籠もりの渡り鳥を思わせる。


さらに紅色の造花を刺したボンネットを被れば、誰の目にも疑いようのないほど高貴な美少女がそこにいた。


肩から垂れ落ちる真っ白な髪は曇り一つなく、それが誇張ではないことを示している。


支度を終えて部屋から出ると、ハイデマリーは夕食を取ってから散歩に出かける。


今日のメニューはシチュー、ジャガイモのサラダにパンと紅茶。


カールスラントではごく一般的な家庭の食卓に並んでいるものばかり。


しかし、それらすべては皆自分自身で作ったものだ。


ハイデマリーの両親は共に働いており、みんなで一緒にいることが少なかった。


そんな生活にもハイデマリーは慣れっこなので独りで食事を取ることが普通になっていた。


長細いダイニングテーブルの端に独りで座り、独りでお祈りを捧げる。


各々が食べる時間はバラバラ。


それがハイデマリーの知る家族だった。


ようやく食べ終えると既に日付は境界をこえていた。





ハイデマリーは屋敷の門をくぐり抜け、周囲を見渡す。


もちろん誰一人としてそこにはいない。


そんなことは確認するまでもなかった。


常に魔法力を発動させているハイデマリーにとって、周囲の気配を感じ取ることは息をするのと同じぐらい当たり前でたやすいことだからだ。


ただ目に見える煉瓦道が月明かりに照らされて、どこまでも無限に続いているように見えた。


ハイデマリーはその先へ誘われるように歩きだした。


街の風景は藁葺き屋根の家も、石造りのお城も、何もかもが影と同化して虚無を作り上げている。


そんな寝静まった街を歩きながら、ハイデマリーは空想に耽るのが好きだった。


そこにいない何者かを頭の中で描く。


取り留めのない会話で賑わう人々を、そしてその輪の中で笑い合う自分自身を。


時には喧嘩することもあるだろう。


それでも最後は仲直りするんだ。






ハイデマリーはもうこんな想像を何百回もしてきた。


 夜風に吹かれながら叶わぬ夢を見続けていた。


 そしてハイデマリー再び眠りに落ちる。


瞼の裏側にある世界を糧にしながら。


 ベッドの中に潜り込むと、独り囁いた。


「朝なんて、来なければいいのに」